ラウドネス樋口追悼「樋口宗孝がん研究基金」と弟子たち

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11月30日は、バンド「ラウドネス」の元ドラマーだった樋口宗孝(ひぐちむねたか)氏の命日です。

樋口氏は「X JAPAN」のYOSHIKIにも影響を与えるほどの 偉大なドラマーでした。

今回は10周忌ということもあり、彼を追悼する意味で、彼の軌跡と彼が残したものについて書きたいと思います。


ラウドネスの樋口宗孝

日本のヘビメタルバンドの先駆者として世界進出を果たした「ラウドネス」。そこでドラムを叩いていたのが、愛称「ひぐっつぁん」こと樋口宗孝(ひぐちむねたか)氏でした。

元々、1977年にアイドルバンド「レイジー」として芸能界にデビューした彼ですが、1981年に「レイジー」が解散。その後、ギターの高崎晃さんとともにヘビメタルのバンド「ラウドネス」を結成します。

その後はハードロック&ヘビメタルを代表するドラマーと言われるようになり、バンド活動だけにとどまらず、プロデューサーとしても活躍します。(代表的な例が「浜田麻里」さんへのプロデュースです。)

 

「X JAPAN」のドラマーのYOSHIKIも彼に影響を受けた一人です。

そして、このバンドのアメリカ進出・世界進出がなければ、今の「X JAPAN」の世界進出もなかったのではないかと言われるほどです。

 

ラウドネスの樋口宗孝の死因

彼は2008年にはこの世を去ってしまいます。死因は「肝細胞癌」でした。

肝細胞がんは、肝臓の細胞ががん化して悪性腫瘍になったものです。同じ肝臓にできたがんでも、肝臓の中を通る胆管ががん化したものは「肝内胆管がん(胆管細胞がん)」と呼ばれています。肝細胞がんと肝内胆管がんは、治療法が異なることから区別されています。

 

肝細胞癌の原因

肝細胞癌の原因として挙げられるのは、

肝細胞癌はB型肝炎やC型肝炎、さらにアルコール性肝障害といった慢性肝疾患から発生します。

肝細胞がんは他臓器のがんと異なり、多くは基礎疾患として慢性肝炎や肝硬変といった慢性の肝臓病があり、肝細胞の破壊と再生を長期にわたり繰り返すことが、発がんの大きな原因であると推定されています。なお、B型肝炎ウイルスの保菌者では、ウイルスそのものが発がんの原因になりうると考えられています。

 

つまり、B型肝炎やC型肝炎のウィルスに感染したことに気づかずにいると、それが慢性化し、更にアルコールの大量飲酒によって癌化を加速させます。

確かに、ひぐっつぁん、お酒、大好きでしたよね….。

ジャック・ダニエル(ウィスキー)を毎晩一本はあけるほどだったと言われています。

山下は終了後の囲みで、樋口さんが毎晩1本は飲んでいたというジャック・ダニエルを今月初旬の家族葬で、皆でご遺体に掛け合ったことを明かし「酒まみれになって喜んでいると思う。もういいって言ってると思う」と親しみを込めて明るく告白。

(山下とはラウドネスのベースの山下昌良さんのことです。)

もし彼がお酒をそこまで飲まなければ…。今更「たら、れば」の話をしても仕方がないことですが。

 

肝細胞癌の症状

肝細胞癌は初期の頃には自覚症状がほとんどないようです。

がんが直径5~10cmの大きさになると、腹部が張った感じや腹痛などの症状を起こすこともありますが、5㎝以内ではまずこれといった症状はなく、腹部超音波、X線CT、MRIなどの検査で発見されることがほとんどです。

がんが大きくなるにともない、肝機能の低下がみられます。また、もともとある肝硬変などの慢性の肝臓病が悪化した症状として、黄疸や腹水の増加などが現れることもあります。

 

彼の肝細胞癌が発見されたのは、2008年の3月に受けた人間ドッグがきっかけ。肝臓に異常が見つかったため、4月7日に検査入院をします。その結果「肝細胞癌」であることが判明したのです。

 

肝細胞癌の進行が進むと痛みなどを感じるなど、色々な症状を引き起こします。

肝臓自体は痛みを感じることがない臓器ですが、腫瘍が大きくなり肝被膜(肝臓を覆っている被膜)が伸ばされると、内臓痛を感じるようになります。

 

肝細胞がんは、小型であっても肝臓の外へ突出するように大きくなったがんの場合、腹腔内に破裂を起こして腹部に激痛と血圧低下による急激な生命危機をもたらすこともあります。

また、横隔膜に浸潤すると、右肩への放散痛(病巣のない場所へ広がるような痛み)を感じることもあります。

 

「肝細胞癌」であることが分かると、彼は治療に専念するために「ラウドネス」の活動を休止して抗がん剤治療を始めまることになりました。

2回の抗がん治療の後には、2008年10月には肝臓を半分以上摘出、という大手術を行います。

その後一時療養のため退院をしていたのですが、ちょうどこの頃、彼はオフィシャルサイトにメッセージを掲載しています。(筆者は当時その記憶があります。)

 

肝細胞癌と診断されて、間もなく半年が経過いたします。ファンの皆様方には心配をおかけしまして、大変申し訳ありません。

自己健康管理にはかなり気を使っていたにもかかわらず、癌が思いのほか進行していたため、その後の治療にかなり時間をようしてます。生死をかけての大手術により、肝臓も半分以上摘出し、現在もなお、治療を行っております。

まだ危険な状態を脱したわけではなく、今後の見通しも余談を許さない、というのは現実問題として直視しながらも、精神力と体力で、引き続き、この大病と闘っていくしだいです。

治療途中ではありますが、ちょうどいい機会でありましたので、途中経過をお知らせさせていただきました。
応援ありがとうございます。

2008年10月16日 樋口宗孝

 

と、再起に強い意欲をにじませていました。

しかし彼の願いはかなわず、3回目の抗がん治療の最中、2008年11月30日に亡くなります。享年49歳でした。

このメッセージを掲載しわずか1ヶ月半後、ガン発見から8ヶ月後のことでした。

 


ギターの高崎晃

彼が亡くなる1週間ほど前に、ギターの高崎晃さんがお見舞いに行こうと連絡したところ、樋口宗孝氏は、

「お腹に水が溜まって熱があってしんどいから。また必ず連絡するからと言われたのが最後」

最後はそうとう辛い状態であったことが分かります。

 

30日、自宅で嘔吐(おうと)して倒れている樋口さんを家族が発見。すでに心肺停止状態で、搬送先の大阪市内の病院で息を引き取った。

 

樋口宗孝の葬儀

彼の葬儀はの2008年12月24日に東京の青山葬儀所で本葬儀が行われました。

『LAST MEMORIAL BIRTHDAY』と題され、LOUDNESSのギタリストで発起人を務めた高崎晃は弔辞で「結成当初の夢だった、世界的なロックバンドになる夢は果たすために、樋口さんのロックスピリットを継承しつつLOUDNESS、LAZYを精進していきたい」と故人を偲んだ。


ラウドネスのメンバー(左から高崎晃、二井原実、山下昌良)とLAZYのメンバー(影山ヒロノブ、井上俊次)

葬儀にはファンや関係者も含め1300人が集まりました。

芸能界からは、柏原崇さん、飯島直子さん、浜田麻里さんらをはじめ、ANTHEM、EARTHSHAKER、44マグナム、シャ乱Qのはたけさん、BOWWOWの山本恭司さん、TUBEのメンバーなどが参列しています。

葬儀の日の12月24日は樋口宗孝氏の誕生日。生きていれば50歳を迎えるはずでした。

 

樋口宗孝の墓

戒名「宗誉楽音禅定門(しゅうよがくおんぜんじょうもん)」となった彼のお墓は大阪の南部に位置する丘陵にあります。

 

樋口宗孝氏お墓参りに関して、ご遺族及びお墓からお花,お線香以外の飲食物はご遠慮願えるようお申し出がありました。

 

お参りに行くファンもいるようですが、生前彼がジャック・ダニエルなが好きだったとはいえ、アルコールを供えるのはひかえたほうがよさそうです。

(このブログでは彼のご家族の意思を尊重し、お墓の場所は特定しません。)

 

「樋口宗孝がん研究基金」とは

樋口宗孝が亡くなってから4年後の2012年4月24日、小児がん・若年性がん支援を目的とした樋口宗孝がん研究基金」が設立されます。

 

晩年、樋口さんは、自らがドラマーとして音楽活動を続けるだけでなく、ミュージシャンを目指す若者の教育にも熱心であった事から、樋口さんの名前を冠した「樋口宗孝がん研究基金」は、次の世代を担う子供たち、若者たち、特に、がんという病と勇敢にも闘う子供たち、若者たちを応援するものにしようと言う事になりました。

 

この基金では、募金やイベントやグッズ販売の収益を、がん疾患啓発イベントの運営やがん研究団体・研究者への支援に充てています。

また、チャリティライブを毎年開催して、小児がんや若くしてがんと闘っている若者たちに、ロックを通して勇気づけたり、新治療の開発の支援を行っています。

チャリティライブにはこれまで、LOUDNESSやLAZYのメンバー、デーモン小暮、斉藤和義等のミュージシャンも参加さしています。

 

樋口宗孝の弟子

後輩をかわいがっていたと言われる樋口宗孝。たとえばLUNA SEAのドラムの真矢は、葬儀の時にこんなコメントを残しています。

「色んな所に連れて行って、ご飯を食べさせていただいた。昔、温泉を借り切って露天風呂に入ったことがあって裸の付き合いができたことが嬉しい」

 

後進の育成にも熱心だった樋口宗孝には、弟子とも言えるドラマーが何人もいます。直接の弟子ではなかったけれど、彼に影響を大きく受けたり、彼と親交の多かった何人かを紹介したいと思います。

 

樋口宗孝の弟子:加藤剛志(かとうつよし)

出身:滋賀県
血液型:B型。
学歴:京都府私立平安高等学校卒。
愛称:「ヨッシー」

 

樋口宗孝の弟子の一人でもあり、その中でもスタイルやフィーリングを一番継承したドラマーである。パワフルでヘヴィーなドラミングが持ち味。

樋口同様、加藤自身も

シングルバスに強いこだわりを持っている。

現在、生前の樋口から譲り受けた、スライ時代に使用していたパール社のドラムセットを使用している。

 

樋口宗孝氏の一番弟子と言われている加藤さんは1988年「レプリカ」とポップロックバンドでメジャーデビューします。(1999年脱退)。ジョン・ボーナムのファンでもあり、樋口宗孝にボンゾの良さを熱弁していたそうです。.

現在は目黒の「ライブステーション」等でライブ活動を行ったりしているようです。彼のTwitterには今でも樋口宗孝氏を敬愛しているものが見られます。

 

樋口宗孝の弟子:古道圭一(こどうけいいち)


出身:神奈川県
血液型:A型
誕生日:1月24日
身長:181センチ

1990年代に人気を博した番組「イカ天」に出演した「A-CHIEF(Aチーフ)というバンドでドラムを叩いていました。これがきっかけでバンドはメジャーデビューします。しかし3枚目のアルバムを発売後バンドは解散。

その後は「Lapis Lazuri(ラピスラズリ)」など複数のバンドを経て、原田龍二などのアーティストのサポートドラムなども行っています。また最近では元TOKIOのメンバーだった山口達也の弟とバンドを結成しています。

 

樋口宗孝の弟子:岡田典之(おかだのりゆき)

血液型:A型
誕生日:12月22日

ローディーをしていたと言われている岡田典之さんは、浜田麻里のツァーバンドである元「ZEUS(ゼウス)」で10年間ほどドラムを叩いていました。

その後は愛知県の豊橋を中心に、「WILD WEASEL(ワイルド・ウィーゼル)」というバンドで2010年ごろ活動をしていました。2013年の樋口宗孝の追悼ライブではゲストとして出演しています。

 

樋口宗孝の弟子:LEVIN

出身:大阪府豊中市
誕生日:6月3日
身長:154センチ

高校からドラムを始め、1992年にバンド「La’cryma Christi」を結成。1997年にはメジャーデビューを果たしますが、2007年にバンドは解散。その後は西川貴教さん、デーモン閣下などのミュージシャンのサポート・ドラマーとして多数活躍中です。

 

樋口宗孝の弟子:shuji

本名:末松秀二(すえまつしゅうじ)
出身:兵庫県神戸市
血液型:O型
生年月日: 1974年11月21日

V系バンドである「Janne Da Arc」の前のドラマーがぬけたため、1996年に加入したのがバンド活動の始まり。

樋口宗孝氏を尊敬していましたが、実際の師弟関係はありませんでした。

しかし、2008年6月に行われたレイジーの復活ライブでは、病気静養中だった樋口氏の代役を務めましたし、実際、樋口宗孝からもドラムの腕前を認められていたようです。

 

Sakura:もちろん存在は知ってましたけど、shujiくんと初めて会ったのは、Pearl(ドラム)の60周年記念イベント(2006年)です。川崎のクラブチッタで、樋口宗孝さんのドラムを代わりに叩いていた。

shuji:僕は、お客さんで見に行ってたんですよ。出演者ではなく。そしたら樋口さんに手招きされて、「おまえ叩け」「えっ!」みたいな(笑)。それで、けっこう叩いて、ソロもやったりとか。

 

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樋口宗孝の弟子 MISAI

2009年に単身渡米。ロサンゼルスで数々のバンドで演奏しながら修行を積んだ後、2015年に「Dollface」に加入。現在MISAIはラスベガスを中心に全米を年に100本以上のライブを行っているプロドラマーです。

 

兵庫県出身のMisaiは、中学時代に不登校がきっかけでドラムを始め、17歳からラウドネスのドラマー樋口宗孝に師事しロックドラマーの道へ進むこととなった

 

彼女は2006年ガールズ・バンド「LOW HEAD MACHINE」を結成しメジャーデビューも果たすのですが、結局はアメリカに渡り、前述のバンドの他にも、多数のアーティストのサポート活動も行っているといいます。

 

樋口宗孝の軌跡-10周忌にあたり…まとめ


若き日の故樋口宗孝氏

日本のハードロック・ヘビメタル界をにない、世界へと羽ばたいた樋口宗孝氏。バンド「ラウドネス」の実質的なリーダーでした。

イギリスのバンド『レッド・ツェッペリン』のドラマーだった『ジョン・ボーナム』に強い影響を受け、大きくて重い音を出すことが彼の信条であり、テンポの早い曲でもその信条を貫き通しました。

 

ノリ的には重戦車みたいな重さを出したい ロック・ドラムは絶対重くないとダメだから

 

そのためには手首でスティックを持ち上げず、スティック先端から持ち上げたり、手首や肘から先を早く動かすなどの工夫をしていたようです。

剣道をやっていたこともあってか腕が強く、竹を割ったようなキレの良い、なおかつパワフルなドラミングが特徴でした。

 

当時、ヘビメタルで主流だった「ツーバス」にはせず、バスドラムはシングルだったのは彼なりのこだわりだったのでしょう。(しかし「2バス」のような音を出していました。)

奏法だけではなく機材に対しても非常に研究熱心であり、プロデューサーとしてもその才能を発揮しました。

アマチュアのドラマーにもドラムセミナーを行い、当時参加した人たち一人ひとりに丁寧で適切なアドバイスをしています。(このセミナーには、これからドラムを始めるという女性も参加していました。)

口調もけして上から目線ではなく、関西弁でユーモアを交え、あたたかさが伝わってくる話し方をしています。

先程紹介した、彼の弟子たちだけではなく、X JAPANのYOSHIKIさんやLUNA SEAの真矢さnなどのミュージシャンも彼の影響を受けています。

その意味において、彼はドラムスタイルや後輩の育成など、今の世代に大きな貢献をしたと言えるでしょう。

生きていれば、もうすぐで60歳を迎えていてたであろう樋口宗孝氏。まだまだ元気でドラムを叩いていたことでしょう。

大好きだったお酒がこの世での彼の命を狭めたのかも知れませんが、今は天国で好きなだけ呑み、後輩の活躍を見守っていてくれていることでしょう。

 

樋口宗孝 2008年11月30日没 享年49歳

 

生前、彼が結婚前に恋人と言われた浜田麻里のことについて

 

 

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