鮎川誠の身長と若い頃のシーナ(妻・故人)との思い出とめんたいロックなどまとめてみました

ミュージシャン
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先日、俳優でロックンローラーだった内田裕也さんの葬儀が行われました。そこには音楽界から沢山の人が参列しましたが、その中のひとりが鮎川誠(あゆかわまこと)。

彼はギタリストですが、ロックバンド「シーナ&ザ・ロケッツ」でギターとボーカルを担当していました。 このバンドのボーカルは彼の妻だったシーナですが、残念ながら彼女は2015年に亡くなっています。


在りし日のシーナ

今回は鮎川誠の身長のほかにプロフィール的なことと、故人であるシーナとの思い出をまとめてみることにしました。

鮎川誠って誰?という世代の方もぜひお読み下さい♪

鮎川誠の身長は?体重は?

鮎川誠の身長は180センチです。

日本人の成人男性の平均身長(約171センチ)と比べるとだいぶ背が高いです。

しかも彼は現在(2019年4月時点で)70歳。2018年の総務省のデータによると、70〜74歳までの男性の平均身長は164センチなので、16センチも身長が高いということになります。

彼の体重は残念ながらわかりませんでした。しかし、彼のこのスリムな体型を見ると、痩せ型であることが分かります。そして脚が長いですね!羨ましい限りです。

 

鮎川誠はハーフとして生まれた

鮎川誠は1948年5月2日に、福岡県の久留米市に生まれます。もうすぐで71歳になります。(信じられないほど若々しいですね!)

彼の父親はアメリカ人で軍人でしたが、父親の顔を知らずに育ちました。母親は料亭の仲居をしていました。

しかし父親が転任する時に母親日本に残ることを決めました。

誠は懸命にローマ字を覚えて父に手紙を書き送り、父からローマ字でしたためた日本語の返事を受け取るなど連絡は相互に続いていた。しかし誠が中学生の時、父の訃報を伝えられた

ハーフだったことで子供の頃、差別も受けたようで、

「進駐軍」「あいのこ」などと呼ばれて差別を受け、母が紙芝居屋に抗議したこともある

彼の最初の音楽の影響はこの父親からだったようで、

父が家に残したフランク・シナトラやビング・クロスビーのレコードが誠のアメリカとの最初の出会いだった

と言われています。

 

鮎川誠の学歴

鮎川誠は九州大学の農学部を卒業しています。

九州大学は帝大系の大学で、九州地方ではナンバーワンの大学です。高校は久留米で名門と言われている「福岡県立明善高等学校」を卒業していますから、元々頭が良かったのでしょう。

実はこの九州大学に進学したのは、母親からの命令だったようで、

1966年、ビートルズ日本武道館公演に刺激されてアマチュアバンド「ザ・スランパーズ」で活動を始め、ローリング・ストーンズやビートルズ、ヤードバーズをコピー、久留米で一度だけライブを開く。親の反対にあったが、九州大学への進学を条件に許され

最初は、九州大学の経済学部を受験するのですが失敗。予備校に行かず独学し、一年後に農学部に合格します。(農学部ですが、彼が卒業したのは農政経済学科でしたから、やはり経済に関連したことを勉強したのですね。)

大学入学後にはバンド活動を本格させましたが、

家庭が貧しかったため、奨学金を貰って大学に通いつつ、福岡市中洲のダンスホールでハコバン(専属バンド)生活を送る。

という苦労人であったようです。

 

鮎川誠の若い頃

彼は1970年「サンハウス」というバンドを結成します。

50代後半以降のロック好きの人には馴染みがあるかもしれませんが、「サンハウス」はブルースバンドです。

後ほど「めんたいロック」のところでもお話しますが、福岡では屈指のバンドとして成長を遂げ人気を博します。

そして、1975年、テイチクレコードからメジャーデビュー(デビューアルバムは『有頂天』)、日比谷野外音楽堂にてデビューライブを行います。その当事人気だったバンドの「ゴダイゴ」やcharと共に全国ツアーを回るなど、活動を広げていきました。


有頂天

このバンドは3rdアルバムを出した1978年に一度解散をしています。(その後2010年に再結成され現在も活動しています。)

サンハウスを解散後、彼は次のバンドである「シーナ&ザ・ロケッツ」を結成することになります。

 

鮎川誠の嫁(妻)だったシーナ

シーナ(本名:鮎川悦子さん)は1953年11月23日生まれ。生きていれば65歳と、鮎川誠より5歳年下でした。

彼女の父親は米軍基地で働いていましたが、その後ダンスホールに勤務、マネージャーになりました。このため、彼女は子供の頃から、この父親の経営するダンスホールで色々なダンスを踊っていたといいます。

小学生の時から既に歌手になりたかったようで

小学校の卒業アルバムの寄せ書きには「私は歌手になって世界中を回りたい」と書いていた。

彼女は中学生、高校生時代は家から東京へと家出を繰り返す家出少女だったようです。

 

鮎川誠とシーナの馴れ初め

彼女が高校3年生の時、今度は京都に家出をします。そして、

その帰りに博多のダンスホール“ヤング・キラー”に立ち寄った際にロックバンド「サンハウス」で演奏する鮎川と出会う。ステージ終了後に意気投合、すぐに交際を深め、同棲生活を始めた。

 

ステージ終了後に意気投合して交際、同棲生活!びっくりですね。シーナはともかく、鮎川誠は一見、冷静沈着に見えるのでちょっと意外です。でも、ロックミュージシャンとしてはありがち..かなと思います(笑)

その後二人は4年ほどの同棲をし、1976年に彼女の妊娠を機に結婚をします。

 

シーナ&ザ・ロケッツの結成の経緯

シーナはある日レコーディングについていくことになりました。鮎川誠がが作った曲をある女性シンガーが歌うことになったのです。しかし、レコーディングスタジをに行くと、

その女性シンガーから突然「この曲はアップテンポで大変だから、あなたの方が向いていると思う」

と言われ、そこでシーナはチャック・ベリーの「カム・オン」を歌うことになります。

幼い頃から「一枚でいいから自分で歌ったレコードを作りたい」という夢があったシーナは、それを歌い上げた後に「私、歌いたいの」と初めて鮎川に告白。

それを受けた鮎川が「シーナがヴォーカルをとるバンドを作ろう!」と決意。シーナ&ザ・ロケッツを結成するに至り、シーナはヴォーカルを担うことになった。

そして1978年10月25日、シーナ&ザ・ロケッツは『涙のハイウェイ』でデビューします。

ところで、彼女が「シーナ」という活動名にした理由は、

夫・鮎川の祖母の名前が「鮎川シナ」であったことと、2人が好きなバンド・ラモーンズの「シーナはパンクロッカー」という曲が由来

ということでした。

しかし、残念ながらシーナは2015年に子宮頸がんで亡くなっています。

 

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鮎川誠とめんたいロック

シーナ&ザ・ロケッツのメンバーとしてだけではなく、彼は個人でも様々な活動をしてきました。

例えば、1980年YMOの初国内ツアーへののゲスト・ギタリストとしての参加したり、あのウィルコ・ジョンソンセッションをしています

ミュージシャンとしてのキャリア豊富な鮎川誠のスタートは九州の博多

1970年代前半の博多は

日本のリヴァプールとも称され

パブロック、R&B、ブルース、初期パンクやモッズ・サウンドといった、ブリティッシュ・ビート文化を受け継いだバンドが続出していた

この頃音楽活動をスタートしたアーティストやバンドは、

田舎者(山部善次郎(山善)が在籍)、サンハウス(柴山“菊”俊之(Zi:LiE-YA)/鮎川誠(シーナ&ザ・ロケッツ)在籍)、開戦前夜(森山達也(THE MODS)在籍)、ハキハキシスターズ(穴井貴恵(THE MARQUEES)在籍)、シューティング・スター(陣内孝則(TH eROCKERS)、北里晃一(THE MODS)在籍)、MODERN DOLLZ(苣木寛之/梶原雅裕(THE MODS)在籍)……

 

このムーブメントは後に、めんたいロック と呼ばれていくようになります。(博多の名産である明太子とロックをかけあわせた呼び方です。)

鮎川誠が所属する「サンハウス」はこの、めんたいロック・ムーブメントの先駆けを作ったともいえます。

「サンハウス」はブルース・バンドとしてデビューしますが、80年代になると、めんたいロックは

音楽的な特徴としては、3分にも満たないような短い曲を、キャッチーなメロディーとビートに乗せていたことでしょう。その代表格が、ザ・ロッカーズです。

といったような「めんたいビート」という言葉が生まれるようになります。

余談ですが、バンド「ARB」もこの「めんたいロック」の流れを組んだバンドです。

 

内田裕也とも親交のあった鮎川誠

彼は故内田裕也とも親交がありました。

「僕が博多でやっていたサンハウスというバンドを裕也さんが聴きに来てくれたんです。裕也さんは60年代初頭から活躍しとったから、すでに重鎮だったし、急に来ると聞いたときは、憧れと畏れと戸惑いとで複雑な気持ちやったね」

内田さんはサンハウスの演奏を気に入って帰ったという。そして翌年の74年、思わぬチャンスが巡ってくる。

 

裕也さんがプロデュースした日本初の野外ロックフェスに、僕らを出演者として呼んでくれたんです。」

「それがきっかけでファーストアルバムを出すこともできた。裕也さんは若いグループに対するリアクションが鋭かったですね。日本のロックをいつもまとめようとしていた」 

 

「78年にシーナ&ロケッツを結成したときも、すぐにその年の『浅草ニューイヤーロックフェスティバル』に呼んでいただけて。以来、ニューイヤーはずっとです」

 

故内田裕也の、ロックの素晴らしさを常に伝えていたことをリスペクトしているという鮎川誠。彼の意思を継ぎ、今までと変わらない活躍をしてくれるに違いありません。



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