郷ひろみ(ごうひろみ)といっても、20代とそれ以下の年代には「誰?そのおっさん」状態だと思いますが、リアルタイムで見ていた私としては、よーく知っているので、今回は懐かしさもこめて、彼がジャニーズから独立したあたりのことについて書きたいと思います!
郷ひろみのジャニーズ時代!
1971年に「男の子女の子」でデビューした彼ももうすぐ65歳!
↓そんな歳を感じさせないほどの若々しさを見せてくれる現在の郷ひろみさん。
デビュー当時はジャニーズ事務所に所属していた彼ですが、当時、アイドルの「御三家」と呼ばれるうちの一人でした。
この「御三家」とは、野口五郎(のぐちごろう)さん、故人となった西城秀樹(さいじょうひでき)さん、そして郷ひろみさんでした。
野口五郎
故西城秀樹
郷さんは他の二人と違い、ちょっと中性的な感じで「王子様」的な存在でした。
そんなところが当時の若い女性にウケたのでしょう。
今の「嵐」の各メンバーにも負けず劣らずの人気でした。
郷ひろみのデビューのきっかけ
彼がジャニーズに入ったきっかけは、1971年の銀座での映画オーディション。
そこで今は亡きジャニー喜多川さんにスカウトされます。
その後、当時、絶世の人気アイドルグループだった「フォーリーブス」のバックダンサーとしてスタート。
芸名は、ファンからの声援「レッツゴーひろみ」から借名して「郷ひろみ」になり大阪でファンクラブが発足する。
余談ですが、「フォーリーブス」は当時のジャニーズ事務所の第一期生となり、現在の「嵐」や「関ジャニ∞」、「KING&PRINCE」の草分け的存在となりました。
フォーリーブス
16歳で芸能界入りした1971年から(デビューは1972年)1975年の3月まで、郷さんは「ジャニーズ事務所」に所属していました。
郷ひろみのヒット曲のランキング
彼がジャニーズをやめた理由をお話する前に、彼のヒット曲のいくつかを挙げてみたいと思います。
興味のない場合は読み飛ばして下さいね(笑)
こちらはカラオケの「JOY SOUND」でよく歌われる彼の曲です。昭和生まれのあなたはいくつ知っていますか?(笑)
郷ひろみのヒット曲:「2億4千万の瞳」
1984年2月25日にリリースされたこの曲は、彼にとって50枚目のシングル。国鉄(現在JR)のキャンペーンソングにも使われたことがあり、多くの日本人が耳にしたことがあると思います。「じゃっぱ〜ん〜」というサビの部分が当時とても流行しました。
郷ひろみのヒット曲:「言えないよ」
1994年4月29日にリリースされたこの曲は、彼にとって86枚目のシングル。第27回日本有線大賞・有線音楽優秀賞 (ポップス)を受賞した曲です。
郷ひろみのヒット曲:「哀愁のカサブランカ」
1982年7月17日にリリースされたこの曲は、彼にとって43枚目のシングル。
原曲はバーティ・ヒギンズの「Casablanca(カサブランカ)」ですが、この曲は、当時のニッポン放送のはた金次郎の番組の企画から生まれたものです。
『オールナイト・電リク』にて日本語歌詞と適任のアーティストを募集した。その結果、1,000通を超える応募があり、その中から当時18歳で作詞家志望の高校生、吉井伸子が最優秀作詞賞に選ばれた。
スタッフによる協議の結果、アーティストには郷ひろみが選ばれ、ニッポン放送ラジオ・スタジオ銀河にて収録が行われた。放送直後から大きな反響があり、CBSソニーは山川啓介による日本語歌詞に変えたものを市販することを決定した。
とてもユニークな経緯ですね。
郷ひろみのヒット曲:「よろしく哀愁」
1974年9月21日にリリースされたこの曲は、彼にとって10枚目のシングル。 まだ「ジャニーズ事務所」に所属していた頃の曲です。
郷ひろみのヒット曲:「GOLDFINGER’99」
GOLDFINGER’99~HIROMI GO CLIPS~ [DVD]
1999年7月23日にリリースされたこの曲は、彼にとって76枚目のシングル。
原曲はご存知のとおり、Ricky Martin(リッキー・マーティン)の 「 Livin’ La Vida Loca」
1998年の FIFAワールドカップのフランス大会公式テーマソング でした。
そのためも日本人にとっても耳馴染みのあったこの曲がヒットするのは当然でした。
なお、6位には、結婚式によく歌われていた(最近は違うと思いますが)「お嫁サンバ」があがっています。またこの他にも数々のヒット曲を残しています。
郷ひろみがジャニーズを移籍した理由は?
当時彼は、歌だけではなくドラマに出演し、睡眠時間も3時間位しかないほどの人気絶頂にありました。
それでも、彼はこのような不安を抱えていました。
「歌えない踊れない喋れない、こんなスキルの無い自分のままでいてはいずれ世間から見放される」
18歳になると彼はこのように考えるようになります。
芸能界をめざしていたわけではなかったので、デビュー前に歌のレッスンもダンスのレッスンもロクに受けていなかった彼。不安になる気持ちも分かりますね。
このプロ精神こそが、40年以上も芸能界で生き残ってこれた理由ではないでしょうか。
しかし事務所側からは、
「スキルアップを図るのは今のブームが落ち着いてからでもいいでしょう。」
と言われてしまいます。
ブームが落ち着くということは、人気がなくなったらということでしょうか。こんな答えでは彼が更に不安になるのもわかりますね。
このことがあり、事務所側と彼の考えにズレが生じてしまい、彼はジャニーズ事務所をやめることを決意しました。
郷ひろみはジャニーズを円満に退社した?
通常、アイドルが所属事務所を辞めて移籍する時には、多くが「問題」になってしまいますね。
時には事務所側から訴えられたり、事務所が圧力をかけて、テレビに出させないようにしたり、そのせいで、結局露出が減り、芸能界から消えていく・・・そんなパターンも少なくありません。
しかし郷ひろみさんの場合、大きな問題とはならず、話し合いの結果、契約期間満了の1975年3月末に契約更新をせず、「契約終了」という形でジャニーズを退社しました。
これはとてもめずらしいことです。
郷ひろみが芸能界を干されなかった理由
とはいえ、「ジャニーズ事務所」として彼の契約終了は本当に問題なかったのでしょうか。
在籍期間中は売れに売れ、事務所にも大きな利益をもたらしたことでしょうが、事務所としてはその前に先行投資として多くのお金をかけているはずです。
それが回収できていたから問題視しなかったのでしょうか?
実は彼は「独立した」のではなく、事務所を「移籍した」のです。
郷ひろみがジャニーズを独立後に移籍したのはバーニング
郷ひろみさんの移籍先の事務所は「バーニング」でした。
この移籍については話し合いがなされたそうです。
渡辺プロダクションの渡辺晋社長と、田辺エージェンシーの田邊昭知社長が仲介役となって、周防はジャニーズ事務所のメリー喜多川副社長と話し合うことになった。場所は渡辺の自宅だった。
「(渡辺の妻の)美佐さんに、メリーさんを呼んでもらいました。そこで『メリーさん、私に(郷ひろみを)やらせてください』と頼んだら『いいわよ』と言ってくれた。ですから、ぼくはジャニーズ事務所とは全く揉めていないんです」
円満にジャニーズを退社、移籍できたのは、ジャニーズのメリー喜多川さんとバーニングの周防社長の話し合いのおかげだということですね。
そして特にこの移籍劇に貢献したのは、渡辺晋社長ということになります。
移籍後の「バーニング」で彼はシングル「花のように鳥のように」をリリースします。
レコードプレスは800万枚だったというのですから、移籍しても郷ひろみが売れることは間違いないと見込んでいたことは容易に想像がつきます。
このように円満独立・移籍を果たした郷ひろみさんですが、結局長年所属していた「バーニング」を2014年に辞め、新しい事務所「エヴァーグリーン・エンタテイメント」に移籍します。
この新しい事務所は「バーニング」の傘下だったので、問題なかったのでしょうね。
ところで、郷ひろみさんとGacktがちょっと雰囲気が似てると思うのは私だけでしょうか💦
Gackt
Gackt(ガクト)の身長はサバ読み(詐称)?体重は?ダイエット方法は?