若い世代には馴染みのない「ザ・スターリン」というパンク・バンド。
1980年から1990年前半まで活動していたこのバンドは今は存在しませんが、このバンドのボーカルで唯一のオリジナルメンバーが遠藤ミチロウ(えんどうみちろう)です。
バンド解散後は彼はソロでずっと長い間活動を続けてきました
2011年の3月、東北地方太平洋沖地震の影響で起きた「福島第一原子力発電所事故」後は、彼の故郷である福島に対して、復興支援として「プロジェクトFUKUSHIMA!」を発足させ活動してきました。
そんな彼は昨年11月に自分がガンと闘病中であることを発表します。
遠藤ミチロウは「ザ・スターリン」のボーカル
↑この画像と、最初の画像が同じ人というとびっくりすると思うのですが、遠藤ミチロウは1980年に「ザ・スターリン」というバンドを結成します。
そして2年後の1982年の7月1日に 徳間音工(現在の徳間ジャパン)からシングル『ロマンチスト』をリリースし、メジャーデビューを果たします。
オリコン50位内に食い込み、バンドのスキャンダラス性と共に話題になる。
スキャンダラス性というのは、この「ザ・スターリン」というバンドはライブ中にかなりヤバイというか過激なこともしていました。
たとえばライブ中に放尿したり、イノシシやニワトリを放ったり、爆竹を放ったり、全裸になって遠藤ミチロウが自慰行為をしたり…。
こんなことを聞くと、イカれた頭のおかしい人間に思えるかもしれませんが、実際彼は頭もよく、若い頃には色々なことを経験していたようです。
遠藤ミチロウの高校と大学
彼は1950年11月15日に、福島県二本松市に生まれました。彼の父親は公務員でX線技師をしており保健所や病院に勤務していました。
高校は福島県内で一番の進学校である福島県立福島高等学校に入学します。福島県立福島高等学校は偏差値「71」!と非常に優秀な学校で、東大に進学する人も多いです。
彼の進学の第一希望は北海道大学だったのですが、残念ながら落ちてしまったため、結局、山形大学に行くことになりました。
バンド活動の原型は既に大学時代から始まっていたようで、
大学時代はイベンターとしてフォークシンガーのライブを企画したり、山形市の花小路という飲食店街でロック喫茶『ジェスロタル』を経営したりしていた。
大学卒業後は東南アジアを放浪
そして大学には6年通い、卒業。卒業後は東南アジアを放浪します。
タイ、ネパール、それからマレーシア、インドネシア、ラオス、またタイに戻ってきて日本に帰りました。ちょうど行った年がベトナム戦争が終わった直後だったのでベトナムは入れなかったんですよ。それでラオスに行ったんですが、ラオスはまだ戦争が終わってなくて、ビエンチャンにしか入れなかったです。
最初は2ヶ月位と思っていたようですが、楽しくて結局1年ほど東南アジアに滞在することになります。
今ではこんなことは当たり前になっていますし、バックパッカーしている日本人は多くいます。しかし彼の時代で、このような東南アジアを放浪するというのは、珍しい存在でした。
失恋がきっかけでミュージシャンに
そして東南アジアから戻ってみると、
当時同棲していた彼女に「2ヶ月ネパールに行ってくる」と言ったまま1年帰ってこなかったので、日本に戻ったら、彼女は友達の男とできていて、振られました。
この経験が遠藤ミチロウをミュージシャンにさせたようですね。
しょうがないよなーっと思いつつ(笑)、結構ショックで、失恋の詩を書いて、それをライブで歌うようになったんです。それまで色々とやっていたんですが、
そのときに「自分で歌う方がいいな」と思ったんですよね。だから僕は失恋がきっかけで歌うことになったんですよ。それがなかったら、ミュージシャンになっていないです。
そしてその後、アパートに住んでいた人たちと一緒に「コケシドール」というバンドを結成しました。この頃彼は、セックス・ピストルズやパティ・スミスなどに影響されていました。
彼の長い音楽活動について、まだまだ書きたいことはあるのですが、長くなってしまいますので、それはまたの機会に書きたいと思います。
遠藤ミチロウと東日本大震災
さて、2011年の東日本大震災によって多くの尊い命が奪われてしまいました。またこの震災が原因で福島県では福島第一原子力発電所事故が起きてしまいます。
震災直後、彼はNHK連続テレビ小説「あまちゃん」の音楽を担当した音楽家の大友良英さんらと、NPO法人「プロジェクトFUKUSHIMA!」を立ち上げ、毎夏、福島市街地で野外フェスティバルなどを開催してきました。
「社会の矛盾に向き合う気持ちはスターリンのころと同じ。福島の矛盾を知ってほしい。いま、人の気持ちがバラバラなんです。補償金をもらった人、そうでない人。仮設住宅に移れた人、そうでない人。そうした人たちの間に、深い溝ができた。震災直後は助け合ったのに、『補償金もらってパチンコか。いいよな』みたいな雰囲気もある」
祭りに参加することで、このような人たちの溝を埋めたいと思ったということです。
「高度経済成長期を経て、日本は豊かになった。だけど、それは経済オンリーの豊かさ。家族や地方、教育なんかで問題を抱えた。戦後の矛盾がたまりにたまって、原発事故につながった気がする。原発を止めるだけでは、根本的な解決にはならない」
上の画像は『8.15世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!』 に参加したメンバーです。一番右側は遠藤ミチロウです。そして左から二番目は坂本龍一です。
実は遠藤ミチロウと坂本龍一は「犬猿の仲」言われてきました。しかしこのイベントで共演したということは、この祭り(イベント)がまさに「人の心の溝」を埋めたということですね。
遠藤ミチロウは膵臓がんを公表
そんな彼ですが、2018年の11月にオフィシャルサイトで自分が膵臓癌であることを明かします。
8月以来体調崩し、入院し、ご心配をかけてます。今年いっぱいのライブスケジュールも全てキャンセルになってしまい、ご迷惑をかけてます。申し訳ありません。
実は入院の検査の結果、膵臓癌であることがわかり、体調の回復を待って、10/22にようやく手術をしました。
先日退院して今は自宅通院治療とリハビリに勤しんでます。
いつ頃元気になって、また歌えるようになるかは予測がつきませんが、今後ともよろしくお願いします。
かなりショックですね!
膵臓癌の原因についてはハッキリしたことはまだ解明されていませんが、原因となる危険因子と言われるものとして、
喫煙
多量飲酒
病気(肥満、糖尿病、慢性すい炎など)
家族(血縁)にすい臓がんになった人がいる
と言われているそうです。
この発表があってから3ヶ月近くたちます。その後の病気の状態などはまだわかっていませんが、分かり次第、新しい情報を書きたいと思います。
遠藤ミチロウには復帰して「カノン」を唄ってほしい!
実は筆者も若い頃は「遠藤ミチロウ」が好きでよく聞いていました。筆者が好きな曲は色々ありますが、彼が復帰したら、「カノン」を是非唄ってほしいと思っています。
泳ぐことは頭をぶつけることだ
見ているあなたに
痛さは分からないだろう
(遠藤ミチロウ『カノン』より)
『カノン』は遠藤ミチロウが最初に作った曲です。ギター一本で、まるでフォークの弾き語りのような曲です。過激なパンクの「スターリン」の時のスタイルとは全く異なります。
遠藤ミチロウの病気からの回復を願って・・・。
意外とマーティ・フリードマンも遠藤ミチロウのような曲を理解できるのではないかと…思ってみたりします。
マーティ・フリードマンの身長は日本人の平均に近い。メガデス時代から日本語を勉強していた