内田裕也の身長と若い頃の画像・樹木希林さんと [追悼]

ミュージシャン
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この記事は2018年10月1日に作成したものです。

内田さんは2019年3月17日に、妻だった樹木希林さんは2018年9月20日に亡くなられました。

彼を忘れないめにも記事はこのまま残しておくことにします(一部修正しております)

 

昨日2018年9月30日に女優の故樹木希林(きききりん)さんの告別式・葬儀が行われました。

喪主は夫である内田裕也でした。

長年別居しながら、子供の内田也哉子(うちだややこ)さんにもその関係を理解できなかったと言わしめた内田裕也(うちだゆうや)さん

彼のことについては、私もずっと興味を持っていましたので、今回は内田さんのことについて書きたいと思います!

内田裕也の身長はどれくらいだった?

内田裕也さんの身長は174センチでした。

日本人の成人男性の平均よりは3センチ近く身長が高いことになります。しかし細身のせいかもっと背が高い (180センチ位の)印象がありました。

とはいえ、内田さんが若い頃の当時から言えば、平均身長よりはかなり高い方だったのではないかと思います。

故:内田裕也プロフィール
本名:内田雄也(うちだゆうや)
生年月日: 1939年11月17日

出身地: 兵庫県 西宮市
出身高:旭高校(大阪)中退

職業: 歌手、音楽プロデューサー、俳優、脚本家、映画監督
デビュー:1959年(歌手として)
子供:内田也哉子

 

 

内田裕也の若い頃の画像

内田さんは渡辺プロダクションに所属し、1959年に日劇ウエスタンカーニバルにてミュージシャンとして初出場。これが彼のデビューとなります。

その後、かまやつひろし、山下敬二郎、田川譲二、寺内タケシ(敬称略)など、色々なバンドを渡り歩きます。

そして8年後の1967年に、グループ・サウンズ・「内田裕也とザ・フラワーズ」のを結成し、ボーカルを担当します。


内田裕也(中央)とザ・フラワーズ 

☆内田裕也とザ・フラワーズ(1967-1970)、芸映プロ所属、コロンビアレコード

1967年11月結成、11/26、新宿ACBでデビュー、ゴーゴークラブを中心に活動

主な曲: フラワー・ボーイ、ラスト・チャンス

1970年、フラワー・トラべリン・バンドと改名し、再出発

 

1960年代後半から1970年にかけて、その当時の日本は、GS(グループ・サウンズ)ブームが巻きおこります。

グループ・サウンズ(またはグループ・サウンド、和製英語: group sounds)とは、ギターなどの電気楽器を中心に数人で編成される、演奏及び歌唱を行うグループ。欧米における「ヴォーカル・アンド・インストゥルメンタル・グループ」の影響を受けたとされ、1967年(昭和42年)初夏より1969年(昭和44年)春にかけて日本で大流行した。略称GS。

つまり、今の「ロックバンド」の先駆けとなったのがこの「GS」。

内田さんはこの時流に乗り芸歴をスタートすることになります。

上の画像は、1973年9月2日(日) 日本武道館で開催されたA ROCK(アマチュアロック祭)にゲスト出演した際 の内田さんです。

ちょうどこの頃彼は妻である故樹木希林さんと結婚をします。

 

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内田裕也と樹木希林の若い頃の画像

上の画像は内田裕也と樹木希林さんとの婚約会見の時のものです。

この会見は1973年9月に行われました。

はにかむ内田さんと、とても幸せそうな樹木希林さんです。

二人の馴れ初めは、樹木希林さんのドラマ出演を内田裕也さんが覗いたことがきっかけと言われています。

約半年の交際の後、二人は1973年10月に結婚をします。

結婚式は築地本願寺にて。

この時、内田裕也さんは34歳。樹木希林さんは30歳。二人の年の差は4歳。

  内田裕也との入籍について「相手のサインなんか関係なく、自分で書いて出した」と仰天の告白

「内田裕也の全てが、好きです。全てが…。」と語り、もし生まれ変わっても内田と出会いたくない

 

内田さんを妄信的と言えるほど愛していた樹木希林でしたが、結婚後2年で二人は別居してしまいます。

以来、樹木希林さんが亡くなるまで40年以上、二人は別居し続けました。

 

ところで、二人には「内田也哉子」さんという女優でありエッセイストをしている一人娘がいます。


内田也哉子

彼女は1976年の2月11日生まれ。ちなみに彼女の夫はジャニーズのグループ元「シブがき隊」のメンバーの一人(本木雅弘さん)。

内田さんと樹木希林さんが結婚したのが1973年。

2年で二人が別居したということは、内田也哉子さんは父である内田裕也さんがいなくなってから生まれ、そしてずっと父親がいない家庭に育ったということになります。

 

 

ところで内田さんは、ミュージシャンとしてだけではなく、1970年代後半から映画俳優としても活動をし始めます。

こちらは映画「スーパーGUNレディ ワニ分署」(1979年)に出演した内田さんです。


1986年「コミック雑誌なんかいならい」に出演した内田裕也さん

 

私生活においては、1981年に離婚届けを提出し、樹木希林さんが離婚の無効申し立ての裁判を起こし勝訴するなどしています。

また1991年には東京都知事に立候補したりしています。

1980年代後半から1990年代にかけては、有名女優との不倫、ストーカー行為をしたとして世間を賑わせたりもしました。

シンガーでありながら1985年に発売した「アニー FOR A CHEEK TIME(Annie For A Cheek Time)」以降は2014年までシングル・レコードを一枚も出していません。

 

内田裕也の2018年現在

2014年にAKBの指原莉乃(さしはらりの)さんと一緒に「シェキナベイビー」を発表しデュエット。これは彼にとっての29年ぶりのシングル・レコード(CD)です。

2016年には映画「水のないプール」に主演し、金沢映画祭にも参加しています。

そして、こちらは2018年1月1日に行われた第45回目の「 New Years World Rock Festival」に参加した内田さんです。

テレビにには頻繁には出てこない彼ですが、ミュージシャンとしても俳優としてもまだまだ現役として頑張っているようです。

しかし、妻であった樹木希林さんの死によって彼はガクッと力を落としてしまったようでした。

 

事務所によると、内田は今夏前に都内で転倒し足を骨折。リハビリのため入院していたが、途中で肋骨(ろっこつ)骨折も判明したという

本木は火葬場での内田の様子を振り返り、「最後、頭蓋骨とあごの骨の中から、あごの部分の骨を拾いハンカチに入れ、ポケットに入れてしまいました」と語った。

 

この葬儀では喪主は内田裕也さんでしたが、挨拶は喪主の代理として娘の内田也哉子さんが行いました。


別居しながら夫婦として出演したCM

この二人がなぜ40年も別居しながら夫婦でいつづけていたのかを内田也哉子さんがこのように語っています。

結婚してすぐに内田が家を出たため、也哉子が結婚するまで19年間、樹木さんと2人暮らしだった。也哉子が「なぜ、こういう関係を続けるのか」と聞くと樹木さんは「だってお父さんには一かけらの純なものがあるから」と返ってきたという。

そして、

樹木さんの死去後、書斎で結婚1年だった1974年10月19日に英・ロンドンから内田が樹木さんに宛てた手紙を見つけたという。

「結婚一周年は帰ってから2人きりで。この1年、いろいろ迷惑をかけて反省しています。裕也に経済力があれば、もっとトラブルも少なくなるでしょう。俺の夢とギャンブルで高価な代償を払わせていることは、よく自覚しています。本当に心から愛しています」

という愛情がたっぷり詰まったものだった。

夫婦には夫婦にしか分からない事情があります。世間一般から見て奇妙な関係であっても、二人は納得済みだったのでしょう。

「お父さん一かけらの純なものがあるから」と語っていた故樹木希林さん。

実は樹木希林さんこそ「ロックンロールな」女性だったのかもしれません。

 

そして2019年に亡くなった内田裕也さん。今は天国で樹木希林さんと仲良く暮らしているのではないでしょうか。

内田さんと樹木希林さんのご冥福をお祈りします。

 

故内田裕也さんから見るとお孫さんがパリコレデビューしています
↓ ↓

本木雅弘の息子の身長は高くてパリコレでモデルデビューはしたのだけれど・・ 

 

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