内田裕也はヒット曲がなかったけどビートルズの前座をつとめ数年後にジョンレノンと知合い親交をを深めた[追悼]

ミュージシャン
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ミュージシャンの内田裕也(うちだゆうや)が亡くなりました。

ロック歌手で俳優の内田裕也さん(本名・雄也)が17日午前5時33分、肺炎のため、都内の病院で死去した。79歳だった。容体が急変したため、家族は看とることができなかった。妻で女優の樹木希林さん(享年75)に先立たれてから6カ月。ロック界のカリスマも、天寿を全うし希林さんの元へと旅立った。葬儀・告別式は近親者で行い、後日お別れの会が営まれる。

嫁だった女優の樹木希林(きききりん)さんが亡くなって約半年…。

夫婦のどちらかが亡くなると、もう片方の方は力を落としてしまい、数ヶ月後〜一年以内にまるで後を追うように亡くなってしまう人も多いそうですが、彼もまた、そうだったのかな…と思いつつ、今回は彼の活動について書きながら追悼したいと思います。

内田裕也のヒット曲は?

内田裕也はロックミュージシャンですが、彼の若い頃やデビューについては、こちらに既に書いておりますので、ご興味のある方は、こちらをお読みください。

内田裕也の身長と若い頃の画像・樹木希林さんと [追悼]
この記事は2018年10月1日に作成したものです。内田さんは2019年3月17日に、妻だった樹木希林さんは2018年9月20日に亡くなられました。彼を忘れないめにも記事はこのまま残しておくことにします(一部修正してお...

さて、「内田裕也の代表的な曲は?」と聞かれると、筆者は残念ながら答えられません。

内田裕也というといつも「シェケナーベイビー」という口癖がすぐに思い浮かびますが、彼の曲は実はあまり知られていないのではないでしょうか。

実際彼(故人)も、

「ヒット曲がない」

と、かつて朝日新聞2018年8月3日の朝刊で答えていました。

 

内田裕也の代表曲は?

内田裕也のオフィシャルサイトを見ると、

1963年にリリースしたデビューシングル「ひとりぼっちのジョニー (ジョン・レイトン)/ヤング ワン(クリフ・リチャード)」を皮切りに、1960年代はロカビリーを中心に、エルビス・プレスリーを初め、ほとんど外国のカバー曲ばかりでした。

カバー曲ではないものは、1977年にリリースされた「きめてやる今夜/GONNA MAKE IT TONIGHT(作詞・作曲:沢田研二/編曲:ジョニー大倉)/ レッツ・ツイストNo.1/ LET’S TWIST NO.1(作詞・作曲:ジョニー大倉)」ほか、 1970年代は3枚1980年代も3枚のシングルを出しています。

なおアルバムは8枚リリースしています。

活動歴の割にはリリースしているCD(レコード)もそれほど多くありません。「代表曲は?」と聞かれてもこれもまた難しい質問ではないでしょうか? しかも彼がミュージシャンとして表で活動していたのを知っている世代も少なくなりつつあります。

 

内田裕也はビートルズの前座をつとめた

1966(昭和41)年に「ザ・ビートルズ」が来日し公演を行いましたが、彼はその前座をつとめました。

もちろん、内田裕也だけではなく、前座をつとめたのはあの「ザ・ドリフターズ」、「(寺内タケシと)ブルージーンズ」、「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」、尾藤イサオ、望月浩、桜井五郎でした。

第一部オープニング・アクトを飾る日本側出演者たちの中から、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、桜井五郎とブルー・ジーンズ、内田裕也、尾藤イサオによる合同演奏が始まる。

曲目はその名もズバリ!「ウェルカム・ビートルズ」。ブルー・コメッツの井上忠夫(大輔)が作曲、安井かずみが作詞を手がけた作品で、このコンサートのために用意された新曲だった。

当事は「ビートルズ」が来るということで日本中が大騒ぎになったそうです。

その前座のメンバーに選ばれたというからには、当事の内田裕也の「ロック(ケ)ンロール」っぷりが業界的にも認められていたということでしょう。そして彼の人脈が広かったということでしょう。

しかし、

3日間で5回ステージをやったんだけど、そこでは警備の警官があまりにもたくさんいすぎて「ビートルズ」のメンバーとは話せなかった。

と後のインタビューで語っているとおり、ビートルズのメンバーとは話せなかったというのは意外です。

 

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内田裕也はジョンレノンとも親交があった

彼はジョンレノン(故人)とも親交がありました。

ジョンレノンの妻のオノヨーコとはもともと知り合いだったらしいのですが、1973年に雑誌のインタビューのためにニューヨークのオノヨーコのアパートに行き、そこでジョンレノンと出会ったそうです。

彼女とは前からの知り合いだったんだけど、インタビューが終わる頃に、汚ねぇジーパンにヨレヨレのシャツ、メガネをかけたヒョロヒョロの男が入ってきた。それで「マイネーム・イズ・ジョン」って言うんだよ。そこで初めて話したんだよな。

「実は、僕はあなたの公演で前座をやってたんだよ」って言ったら、「オーッ!!」ってなって。その頃は、ちょうど2人が同棲を始めた時期だった。当時から、すでにジョンは神格化されてて、なかなか会えない。実際、人嫌いなところもあるし。ただ、そこで一気に意気投合したんだよな。

オノヨーコにインタビューできるというのも、なんだかすごい話なのですが、そこで、かつて前座をつとめたビートルズのジョン・レノンと出会うというのも、かなりの「縁」ですね。

意気投合した二人は、ジョンのレコーディングを見に行ったり、飲みに行ったりしたこともあるようです。

しょっちゅう3人で飲みに出て行っては、俺だけベロベロになってた…。ただ、ジョン・レノンも店で飲んで暴れて、出入り禁止になってる店もあるんだってあのジョン・レノンが出入り禁止になるんだから、相当暴れたんだろうな(笑)

品行方正なイメージがあるかもしれないけど、その話を聞いて、俺はうれしくなっちゃって!やっぱりロックンローラーってのはスゲエなと。だから、より一層思うんだけど、ケンカもできねぇようなヤツに、ロックンローラーなんて言ってほしくないよな。…ま、ニューミュージックのヤツなんかは口はうまいんだけどな(笑)。

ジョンレノンとオノヨーコと一緒に飲みに行けるなんて..!これもまたすごいエピソードですね。

 

内田裕也はジョンレノンから影響を受けた

そして内田裕也はジョンレノンから影響を受けていきます。

俺が彼から影響を受けた最大のことは、やっぱりロックンロールは素晴らしいってことだよ。俺がいろいろなところで「ロックンロール!!」って言ってるのは、彼が志半ばで逝ったから。それも、もちろんあるよ。…もっと大事に付き合いたかったっていうのも、正直、ある。まさか、ああいうことになるとは思わなかったからね。

彼がよく「ロック(ケ)ンロール!}っと口に出して言っていたのはジョンレノンに由来していたのですね!知りませんでした。

ちなみに彼がその後、俳優になったのはオノヨーコの言葉がきっかけだったようで

ヨーコの「あなた何もしてないじゃない」の叱咤(しった)が後の映画進出の原動力になった。

 

内田裕也 まとめ

ヒット曲が特になかったけれども、多彩な人脈を持ち、「ロックンロール」のカリスマ的な位置にいるというのは、ある意味「才能」と言えるでしょうね。

ここ17〜18年ほど彼は「ニューイヤーロックフェスティバル」を主催してきました。日本の「ロック」の土壌を守ってきたと言えます。

また、阪神大震災、東日本大震災のときには被災地で、ジョー山中らとを炊き出しも行いました。

人間らしく、生きたいように生きてきた彼は幸せだったのではないでしょうか。

 

内田裕也の身長と若い頃の画像(樹木希林さんと)と現在 

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